先日、ある精密切削の町工場の社長さんと話していたら、笑いながらこう言われたんです。「池田さん、AIだなんだって世間は騒いでるけど、うちみたいな油まみれの仕事には関係ないよね」と。
気持ちはよくわかります。ねじや金属の部品を、NC旋盤を二十四時間回して削っている。手も機械も油で汚れる。AIみたいな“頭のいい話”は、どこか別世界のものに見えますよね。
でも、私はその社長さんに、こうお伝えしました。「逆だと思いますよ」と。**AIで先に置き換わるのは机の上の事務仕事です。手と体を使う仕事は、まわりが効率化されるほど相対的に値段が上がっていきます。経済学でいう「ボーモルのコスト病」です。**社長の現場は、これから値段が上がる側にいるんです。
なぜ、そう言い切れるのか。私は元銀行員で、いまは中小企業診断士・認定経営革新等支援機関として、山梨で多くの社長さんと現場で話してきました。その経験をふまえて、新しい発見のある角度でお話しします。
AIが苦手なのは、子どもでもできる手の動き
まず、AIが得意なことと苦手なことを、はっきり分けて考えてみましょう。
AIがいちばん得意なのは、「言葉にできる判断」です。見積書を書く、文章を整える、データから傾向を読む、よくある問い合わせに答える。こういう“頭の中で完結する仕事”は、もう驚くほど速く正確にやってのけます。
一方で、AIがいまだに苦手なのが、「体で覚えた手の動き」です。コンマ数ミリの削り具合を指先で確かめる、機械の音の違いで異変に気づく、狭い天井裏に潜って配線を一本通す。こういう作業は、見た目は地味でも、AIにとっては途方もなく難しいんです。
これ、ロボット研究の世界では昔から知られている逆転現象です。人間にとって難しそうな知的作業ほどAIには易しく、子どもでもできる体の動きほどAIには難しい。机に向かう仕事から先に置き換わって、手と体を使う仕事が最後まで残る。そういう順番なんですね。
二百年変わらない、弦楽四重奏の値段の話
ここからが、経済学の面白いところです。
ボーモルという経済学者が、こんな話を残しています。モーツァルトの弦楽四重奏を演奏するのに、二百年前も今も、必要なのは四人の奏者と四十分の時間。生産性はまったく上がっていません。なのに、奏者の給料は、この二百年で何十倍にも上がった。なぜだと思いますか。
答えは、「まわりの仕事の生産性が上がったから」です。機械や技術でほかの仕事がどんどん効率化されると、効率化できない手仕事の値段が、相対的にぐんぐん上がっていく。これを「ボーモルのコスト病」と呼びます。
さて、これをAIの時代に置き換えると、どうなるか。
AIは、事務や分析や文章づくりの生産性を、一気に何倍にも引き上げます。誰でも、安く、その手の仕事ができるようになる。ということは——AIが手を出せない「体を使う仕事」の値段が、相対的に上がっていく、ということなんです。弦楽四重奏の奏者と、まったく同じ構図ですね。
油まみれの現場は、時代遅れなのではありません。むしろ、これから希少になっていく側にいます。
そして、これは町工場だけの話ではないんです。設備をその手で据え付ける職人さん、お客さんの体に直接触れる施術、対面でもてなす宿や飲食、現場に立つ写真の仕事。どれも、手と体と「その場にいること」が値段の核になっている商売ですよね。AIがどれだけ賢くなっても、配線は通せないし、料理は運べないし、お客さんの隣で一緒に笑うことはできません。事務まわりはAIにどんどん助けてもらいながら、人にしかできない部分に時間と人手を寄せていく。これからの中小企業の勝ち筋は、案外そこにあります。
机の仕事から手放す。現場のデジタル化は意外と安い
では、町工場の社長さんは、明日から何をすればいいか。
順番が大事です。まず手放すのは、現場ではなく「机の上の仕事」のほう。見積書、日報のまとめ、請求書、報告書。こういう“言葉にできる事務”から先に、AIに巻き取らせる。月末の事務に二十時間かけていたのが五時間で済めば、その十五時間を現場や段取りに回せます。この手の事務のAI化は、IT導入補助金(デジタル化・AI導入補助金)の対象になることも多く、費用面のハードルは思うより低いです。
最初の一歩は、拍子抜けするほど簡単です。たとえば日報。その日の作業をメモ書きで放り込んで、こんな指示を添えるだけです。
次のメモを、取引先にも見せられる日報の文章に整えてください。 ・箇条書きのメモ:〔今日やった作業を思いつくまま書く〕 ・条件:事実は足さない/推測で埋めない/分からない点は「要確認」と印を付ける/200字程度で ・トーン:社内の記録として簡潔に
コツは、AIに「事実を作らせない」こと。数字や固有名詞、金額はこちらが渡したものだけを使わせて、仕上がりは人の目で一度確認します。下書きはAI、事実の確認と押印は人。この一線を引いておけば、事務の下ごしらえは安心して任せられます。
「でも現場のデジタル化なんて、お金がかかるんでしょう」と、よく言われます。ところが、これが意外と安い。たとえば、機械が止まったかどうかの稼働監視。メーカー純正の仕組みは数十万円しますが、パトライトの光を外付けのセンサーで拾うだけなら、数万円で組めてしまうこともあります。こうした稼働監視の機器は、省力化投資補助金のカタログ注文型で対象になっているケースもあります。現場を丸ごとAI化しなくていい。困っている一点だけ、安く拾えばいいんです。
そして、いちばん大事なこと。「うちにしかできない手」を、堂々と値段に乗せる。AIで誰でもできる部分が安くなるほど、できない手の希少性は上がります。受注が戻ってきた局面なら、発注側のほうから単価の相談が来ることもある。そのとき、遠慮しないことです。一個あたり三円の値上げでも、月十万個なら月三十万円、年で三百六十万円が変わってきます。値上げをどう切り出し、どう進めるかの具体的な手順は、「値上げしたいけど客離れが怖い」社長へに譲ります。
明日からの具体アクション、三つ
ひとつ。紙を一枚用意して、自社の仕事を二つに仕分けてください。左に「言葉にできる判断・事務」、右に「体で覚えた手・現場」。左はAIに任せる候補、右はあなたの会社の値段の源泉です。この一枚で、何を手放し、何を磨くかが見えてきます。
参考までに、一般的な町工場を想定した仕分けの見本を挙げておきます。
| 機械に渡せる(左) | 手に残す(右) |
|---|---|
| 見積書・請求書の作成 | 段取り・工程の組み立て |
| 日報・作業報告のまとめ | 機械の音の違いで異変に気づく |
| 在庫記録・発注リストの整理 | 指先で確かめる仕上げの勘所 |
| 問い合わせメールの下書き | 客先での据え付け・調整 |
| 議事録・報告書の清書 | 若手への手の教え方 |
左はAIに下ごしらえを任せ、右は人の時間を厚く残す。この振り分けそのものが、これからの町工場の値段を決めていきます。
ふたつ。右の現場ではなく、左の事務から先にAIへ渡してください。見積でも日報でも、いちばん時間を食っている一つを選んで、今週やらせてみる。事務に人を張り付けたままにしないこと。空いた手は、値段のつく現場のほうに回します。
みっつ。次の単価交渉までに、「これはうちの手じゃないとできない」という工程を、三つ書き出しておいてください。この精度、この納期、この対応力。AIにも他社にも真似できない手を言葉にしておくと、それがそのまま値上げの根拠になります。「なんとなく上げてほしい」では通りませんが、「この手にこの値段」なら、相手も納得しやすいんです。
よくある質問
AIで製造業や職人の仕事はなくなりますか?
先になくなりやすいのは、見積・報告・問い合わせ対応といった「言葉にできる机の上の仕事」です。指先の感覚や現場での体の動きが必要な仕事は、AIにとって最も難しい部類で、最後まで残ります。むしろまわりの事務が効率化されるほど、手仕事の相対的な価値(=値段)は上がっていきます。
現場のデジタル化はお金がかかりますか?
丸ごとやろうとすると高くつきますが、「困っている一点だけ」を狙えば安く済みます。たとえば機械の稼働監視は、純正の仕組みだと数十万円でも、パトライトの光を外付けセンサーで拾う方式なら数万円で組めることもあります。全部を一度にやらず、効果の出る一点から始めるのがコツです。
まとめ
頭のいい仕事から先に、安くなっていきます。これは脅しではなくて、手と体と現場を持っている会社にとっては、むしろ追い風の話なんです。世間では「AIに仕事を奪われる」という不安ばかりが先に立ちますが、奪われやすいのは机の上の仕事のほう。あなたが長年磨いてきた手の技は、いちばん最後まで残るどころか、まわりが効率化されるほど相対的に値が上がっていく。しかもAIの普及は、世間が思うよりまだ始まったばかりで、机の上のホワイトカラーの仕事から先に変わっていきます。あなたの現場の番が来るのは、まだ先のこと。それまでに、机の事務を手放して、手の価値を磨いて、堂々と値段に乗せておく。準備の時間は、たっぷり残っています。
AIは、あなたの手仕事を奪う敵ではありません。まわりを効率化することで、あなたの手の値段を、静かに押し上げてくれる側にいるんです。
今日はまず、紙を一枚。自社の仕事を「机の事務」と「手の現場」に分けてみるところから、始めてみませんか。
なお、「うちの強みは何なのか」を棚卸しして打ち手に変える方法は、現場で機能させるクロスSWOTの作り方でも詳しく書いています。あわせてどうぞ。
AIの使いどころや値決め、設備投資の判断など、「うちの場合はどうすれば」と迷われたら、お気軽にご相談ください。山梨を拠点に、元銀行員・中小企業診断士の視点で、御社の現場に合わせて一緒に考えます。